漆黒1
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参考書を伏せ、窓の外を見ると夜闇に桜の花が浮かんでいた
明は疲れた頭を休めようと椅子から立ち上がり、窓枠に肘をついて桜を眺めた
階下から賑やかな笑い声がする
兄の篤が結婚したいという女性を家に連れていたからだ
付き合ってる女性がいるのは知っていたが
会うのは今日が初めてだった
明るく清楚な女性で、兄に似合いだと明は思った
両親は礼儀正しい彼女をいたく気に入ったようで
居間の端でぼんやり様子を見ていた明に
「あんたもお兄ちゃんみたいに付き合う人は選びなさい」と嫌味を言った
幼馴染の…特にケンちゃんを嫌っていた親の心無い言葉は
いつも明を傷つけていた
居た堪れなくなった明は、挨拶を早々に済ませると勉強すると断って
二階の自室に逃げてきた
今年は暖冬で早く春がきたおかげで
例年より早く桜が満開になっている
桜の花を見ていると冷たく硬直していた心がゆっくりと溶けていく
正直、明は兄が婚約者を連れてきてホッとした
高校を卒業したら大学に進学して、この町を出てゆこうと決めていたのだ
両親は自分に何の期待もしていない
兄がいればそれで満足なのだ
優秀な兄と聡明な嫁が青果店を継いでくれる
出来の悪い次男など必要としていないことは
常に兄と比べられ、蔑まれてきた明がよく解っていた
「…桜……見に行こう」
明は上着を羽織ると、足音を立てないようそっと階段を下り、家を出た
居間を横切る微かな物音に気がついた篤は、無言で玄関へ向かう影を見つめた
商店街を抜け、駅と反対方向へ暫く歩くと川沿いの土手に桜並木があった
夜も更けてきたせいか、人影はない
誰もないないことに安心した明は
川面を撫でる緩やかな夜風を頬に受けながら
柔らかな草の上に寝転がった
空には星が煌き、一切の音を草が吸収しているかのように
辺りは静かで…明は目を閉じた
篤と涼子を取り囲む両親
4人の輪から完全に外れている自分
自分は一体何なのだろう?優秀な兄を更に引き立たせる為だろうか?
卑屈な自答に苦笑する
本当は解っている
単に、自分が無能なだけなのだ
兄がいようがいまいが関係ない
自分も両親が期待するような出来た子供なら
あの輪の中にいられる
だが、それが出来ない
勉強もスポーツも自分の出来る限りで努力している
その結果を評価されないとすれば、仕方が無い
そこに…居場所はないのだ
思いを巡らせていると不意に頭上で声がした
「よぉ、明 また妄想か?」
そういうと喉の奥へ笑いを押し殺して明の隣に座った
「ケンちゃん?!」
ギターを横に置くとケンは驚いた表情の明に答えるように言った
「バンドの練習帰り、人が土手に転がってるから死体かと思ったぜ」
悪びれない口調で明の頭を撫でた
「…そっか…」
明の沈んだ口調にケンは小さく溜息をつく
「また家で何かあったのかよ」
「…いや…、兄貴が結婚したいって人を連れてきてさ」
「へぇ」
「……」
黙り込む明にケンは笑った
「なんだよ、兄貴を盗れて悲しい〜ってわけか?」
「え?……」
「そんな女認めねーぞとか?」
明は慌てて反論する
「そ…そんな、別に俺…」
ケンはニヤリと口の端を吊り上げた後、冗談だと言った
そして一瞬真顔になり
お前の兄貴は異常だな…と呟いた
「?…何?」
聞き取れなかったケンの呟きに明は小首を傾げる
ケンは自分と同い年とは思えない明の幼さの残る表情に眉根を寄せた
加護欲をそそられる、自分が守ってやらなければと思わせる魅力が明にある
反面、たまに垣間見せる強さや才能に驚かされる
宮本明の魅力を斉藤ケンはよく理解していた
そして、明の兄、篤もソレを見出した一人だった
幼馴染のケンは明を見る篤の眼差しが、徐々に尋常でないものに変わっていくのに気付いてたが
それもどうやら終わりなようだ
結婚して家庭を持てば、さすがに弟離れするだろうと
話しを切り替えるようにケンは大きなアクビをして背伸びした
「お前もそろそろ女でも作ればどうよ?」
「えっ……」
明がユキに片思いしていて、まだ他に経験のないことを知っているケンは
あからさまに動揺する明をからかった
「キスの一つもロクにできねぇーんじゃ笑われて終わりだぞ」
「そっ…そーゆーケンちゃんはどうなんだよ!」
明の予想通りの反応に可愛いと思いつつ、不敵な笑みを浮かべた
「どうって言われてもな…証明してみっか?」
「……ケン…っ」
明に覆いかぶさると片手で顎を固定し、唇を重ねた
余程驚いたのか、触れた瞬間肩がビックと跳ねたまま硬直して動かない
それをいいことにケンは親指で明の顎を下に引き、口を開かせる
薄く開いた口からケンの舌が中に入った艶かしい感触に
明は我に返り、力いっぱい押しのけた
「ケ…ケンちゃんッ!!」
顔を真っ赤にしているであろう明の様子にケンは大笑いした
「ハハハッ!冗談だろ?明!」
「冗談じゃ済まないよ…俺のファーストキスが……」
ケンはわざとらしく肩をすくめた
「あれ?そうだったのか?」
「…そうだったのかって…」
知ってるくせに…と、唇を拭いながら明は睨んだ
ケンが傍のギターを担ぎ立ち上がった
「行こうぜ、プレハブ!やっぱ酒がねーとイマイチだな花見も」
差し出された手をとり、明も立ち上がる
ケンは明の肩に腕を回し、引き寄せた
「俺はお前の味方だぜ?」
「……うん」
「よし!今夜は飲むぞ〜!!」
ケンの体温が暖かい
ぶっきら棒な言葉の中にいつも暖かさがある
「…ケンちゃん」
「ん?」
「ありがとう」
そう言って明は微笑んだ
その笑顔を一瞬ポカンを見つめ、ケンは二度目の溜息をつく
「お前なぁ…少しは自覚しろよな」
「?」
無防備な笑顔晒すんじゃねーよ
心の中で呟き、ケンは素早く明の唇に口付けた
触れるだけのキスをして離れると、猛ダッシュで走り出した
「!!!ケンちゃんッ!」
明は再び顔を赤くして、ケンの後を追った
遠ざかる二人の後ろ姿を見ていた篤が桜の木の陰から出てきた
隠れていた月が雲の間から顔を覗かせ
辺りを青白く照らす
乾いた唇が
壊れた玩具のように呟く
「明……明……明……あ き ら……」