Chapter I - 4
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スッと静かに襖が開き、秀吉は顔を上げた
「どうだい?慶次くんの様子は」
「うむ、大丈夫だろう」
「…慶次くん…酷い顔色だね」
半兵衛は秀吉の隣に座ると、その逞しい腕に抱かれた慶次の顔を覗き込んだ
蒼白な顔に瞼の下のくまが薄墨のように引かれ、ピクリとも動かない
「こうして見ると昔と変わらないね…」
「そうだな」
「慶次くんと出会った頃を思い出すよ……あの頃は良かった」
「……過去を振り返っても仕方ない」
「まぁ、そうだね」
半兵衛は傍に敷かれた布団を見て、掛け布団を捲った
布団に寝かせた方がいいと思ったのだが
秀吉の視線の先を見て肩をすくめた
慶次の手がしっかりと秀吉の襟口を掴んでいる
「…全く、体ばかり大きくなって中身が子供のままじゃないか」
苦笑しながらも半兵衛は慶次の顔にかかる前髪を梳いてやった
「髪…随分伸びたね」
「うむ」
「寧々から貰った簪をさす為に伸ばし始めたんだっけ…」
「…そうだったな」
秀吉と半兵衛が慶次と知り合ったのは前田家の敷地を離れた山の中
鏡池と言われる池に慶次が飛び込んだところ、薬草採りに来ていた半兵衛達が助けたのだ
聞くと前田家に住んでいると言うので下働きの丁稚かと思い
びしょ濡れの慶次を秀吉が背負って行くと
屋敷中が蜂の巣をつついた騒ぎになった
丁度まつの友である寧々がいて、池に母から貰った髪紐を落としたと泣く慶次に
自分の簪を与えたのだった
「まさか前田家の跡取りとは思わなかったな…」
半兵衛は秀吉の背でグズグズと泣く色白で華奢だった慶次を思い出し、小さく笑った
「…あんなことがなければ…僕らは今でもあの頃のように一緒にいられたのに」
「慶次のせいではない」
「もちろん、分かっているよ」
秀吉は慶次を布団に横たえると襟口を掴むその手をそっと剥がした
「…そろそろ利家の話が終わるだろう」
「僕は納得できないね…彼らに全てを話すなんて…危険だ」
「あの惨事を目の当たりにしたのだ…いずれ分かること」
「変わった瞬間を見られた訳じゃないたろう、なんとでも言い訳できる」
「勘ぐられても厄介だ…何かの間違いで慶次があの事を知ってしまうよりは
先に全てを話しておいた方がいい」
秀吉は慶次を見下ろすと頬をひと撫でし部屋を出た
半兵衛も後に続く
外の雨が斜めに雨戸を打ち付けていた
「…あの時も…寧々が死んだ時も酷い雨だった」
半兵衛がポツリと独り言を呟く
「……」
「秀吉、もし彼らが餓狼を利用したらどうする」
「その時はその時だ…」
「…ずい分彼らを信用しているんだね秀吉。慶次くんの友だからかい?」
半兵衛はフンと鼻先で笑った
「真田幸村の敬愛する武田信玄…あの忍でもいい。伊達政宗の右目。彼らを餓狼が殺してもまだ慶次くんを友と思うだろうか?」
「…」
秀吉の蘇る忌まわしい記憶を散らすように首を振ると、無言で歩き出した
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利家の話が終わった後、幸村と政宗は別室へ移っていた
「…」
幸村は小さく溜め息をついた
「この嵐では今宵はここにどどまるよりないな…」
本当ならば、同盟の約定を交わし上田へ帰る予定だったのだが
思わぬ事態に全てが白紙になってしまった
直ちに帰って対策を考えなければならないというのに
それを阻むように雨風が強さを増してゆく
「…政宗殿」
「…」
政宗は何もない畳の目地をただジッと見つめていた
「……政宗殿」
幸村は先ほどから何も話さない政宗に苛立ちを感じた
「何を考えておられる」
「…」
「承知しておるとは思うが慶次殿のこと、他言してならぬぞ…
特に慶次殿本人には、絶対に」
「…」
「化け物を取り憑かれ挙げ句、想い人を殺めてしまったなど…」
昔、今回と似たような状況が起こり、豊臣秀吉が慶次の為に
自ら罪をかぶったことも知った
病死や事故死ではいいわけのきない遺体の損傷具合に仕方なく
秀吉が野望の為に妨げになる妻を殺したという筋書きを作ったのだという
慶次は自分の中に息づく化け物の存在を知らない
利家の話では、餓狼が開放されると前後の記憶が消滅するらしく
慶次が意識を取り戻したときには寧々を殺したことはもちろん数日前のことまで
スッポリと忘れてしまっていたという
幸村は妻を殺されても尚、慶次を想う秀吉の器の大きさに…自分が入り込む余地のない友愛を感じ唇を噛んだ
(俺は…お館様を殺されても…慶次殿を想うことが出来るだろうか…)
いつの間にか眉間にシワを寄せ、考え込んでいた幸村はハッと顔を上げた
政宗がこめかみを抑え、目を閉じている
「政宗殿、御加減が優れぬのか」
「…AH〜…少しな」
気だるそうに呟くと政宗は立ち上がり、襖を開いた
「悪ぃな幸村、先に休ませてもらうぜ」
「政宗殿」
「同盟の件はまた後でだ…ok?」
「構わぬ…政宗殿」
立ち上がった幸村を手で制すると
政宗はしっかりした足取りで廊下の奥へ消えていった
「……」
薄闇に飲み込まれるようなその後ろ姿を見つめ
幸村は言い知れぬ不安におそわれた