紫苑
終わってみると呆気ないものだと
篤は途中で襲った人間の血を吸いながら思った
体はさすがに疲労していたが、心は生まれて初めてというくらいに晴々として爽快だ
干からびた死体と
この島に来てから壊れても修理して履き続けてきた靴を
放り投げた
篤は倒れていた大木に腰掛け、少し休んだ後
再び雅の屋敷に向かって山を下り始めた
酷い罪悪感と後悔に襲われることを予想していたが、
一切そんな感情は沸き起こらない
それより、早く最愛の弟に会いたいという想いで一杯だった
我ながら冷酷非道だと思う
だが雅の言うとおり、本能に従うのが最も尋常だと今更だが気付いた
ダテに長生きしてないな…と篤は苦笑し、再び弟に思いを馳せた
昼夜歩き続け、何日か後ようやく雅の村に辿り着く
村の入り口の門に近づくと、篤の姿を見た門番が息を呑んで立ち尽くした
硬直する村人に、雅を呼ぶように言うと、金縛りが解けたかのように走り出す
暫くして雅が現れた
「…どうした篤、その姿は」
雅は全てを察し、楽しそうに口元を吊り上げた
「明の世話をさせてくれ」
篤の抑揚のない声と反対に、雅の笑い声が響く
「フッ…お前には守るものがあるのだろう?」
篤は、ふぅ…と小さく息を吐いて
真っ直ぐ雅を見た
「涼子も腹の子も殺してきた」
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雅の笑い声が頭から離れない
明に会う前に、その血まみれの姿を何とかしろと言われ
用意された風呂の湯に浸かりながら、汚れを流す
ワクチン奪取の目的で向かった炭坑で明と再会した
溢れ出す情を抑え込み、決闘を約して別れたすぐ
雅が明を捕らえたと伝達が入った
自分についていた監視役の吸血鬼が
雅に明の居場所を報告した事を知り
初めて、真の狙いは明だったのだと気付いた
どんなに嘆願しても、拷問を受ける弟を救うことが出来ず、
絶望する篤に明は言った
今にも事切れそうな、か細い声で
『家に…帰っ…て、俺は…も…いい…から』
これから責めの果てに殺され、吸血鬼にされる明は
永遠に雅に支配されるだろう
篤は自分の村に戻った
ある日
普通に晩飯を食い、普通に談笑して床につき、眠りについた深夜
涼子の首を切り落とした
念のために腹も突き刺す
転がる首を抱え、その額に口付けを落とした
苦痛も無く絶命した彼女の表情は眠ったまま、穏やかな美しい顔だった
さようなら、と首を置き
一緒に住んだ家に火を放った
許されるはずもないが
涼子と生まれてこれなかった命に詫びた
涙は一滴も出なかった
体裁や偽善を一枚一枚剥がしていったら残ったのは我欲
明と涼子を天秤にかけ、一切の感情を消して脳裏に浮かんだのが弟だった
ただそれだけだが、それが全ての答えだと思った
明が欲しい
本能に近い欲求だった
明の言う『家』が涼子の元なのか両親の元なのか解らないが
求める人の元へ行け、そい言う意味なのだろう
『俺はもういいから』
『兄貴は行け』
ずっと前に同じ事を言われた
『兄貴は家に帰れ』
何が原因だったか
いつもの両親の小言に反応した明が家を飛び出した時だった
夜の河川敷で黒い水面を見つめる明をみつけ、連れて帰ろうとしたが
頑なに拒絶され思わず手を上げてしまった
明は強い視線で見返し
『兄貴は家に帰れ』と叫んだ
自分にかまうな、と
大きな目にいっぱい涙をため
それでも視線は外さず
家には自分の居場所がない
自分がいると…家がダメになる
泣き叫ぶ明に、そんな事はないと
手を差し伸べる篤を明は突き飛ばした
同情されると惨めになるんだよ!
兄貴はいつもそうだ!そうやって誰かを傷つける事に気づきもしないで
自己満足って言うんだ!
血を吐くような悲痛な叫び
やがて涙も枯れた明は、虚ろな目を伏せて呟いた
『兄貴は家に帰れ…必要だから
酷いこと言ってごめん、本当は兄貴も親も大好きなんだ
…だから……兄貴は行けよ』
立ち去る明の背中に手を伸ばせなかった
その全身で一切を拒絶しているのが解ったから
細い背中を見送るしか出来なった
雅の執拗な拷問に
乾いた血で張り付いた唇を微かに動かした
家に帰れ…自分はもういいから
死を覚悟したのだろう
静かで、優しい声だった
兄貴を必要とする人の為に
その人の傍にいてやってくれ
そう聞こえた
明が生まれた日のことを良く覚えている
ずっと弟が欲しいと言い続け、その願いが届いた日
朝方起こされて、父親と一緒に母が入院する産科へ向かう
徐々に白んで遠くから明るい光が差し始めた
母に抱かれた赤ん坊の頬に
恐るおそる指で触れると
生まれたばかりの小さな手が一生懸命自分の指を
ギュッと掴んだ
あの時の感動をいまも鮮明に覚えている
自分がいないとダメなんだ
自分が守らなきゃ
そう思った
明は他人を思いやる優しい人間に育った
そう、自分とは真逆の人間に
加護欲がいつしか支配欲に変わっていた
弟は自分がいないと何も出来ない
いや、してはいけない
常に兄に依存する存在でなければ
明が自分以外に目を向ける事
明に自分以外の者が触れる事
全てが許せない程
いつの間にか、自分が弟に依存していた
そして…とんでもない過ちを犯してしまった
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篤は風呂を出て、真新しい服を着ると、屋敷の奥へ向かった
雅が渡り廊下の柱に寄りかかってこちらを見ている
閉じた障子の向こうに…
急く気持ちを抑えながら、ゆっくり近づく
雅が無言で障子を開いた
中央に敷かれた布団に明が横たわっている
篤が薄暗い座敷に一歩踏み込んだ気配を感じ、明が顔を上げた
「…明」
篤は手を伸ばした
それに驚いた明の肩がビクッと跳ね
困惑した様子で雅を見る
「明?」
篤が再び声をかけると明は一瞬目を向けるが、
瞬きをして直ぐに雅を見つめた
明の様子に動揺する篤を
雅は喉の奥で笑った
「明、コイツは私の右腕で篤という」
「アツ…シ?」
明は小首を傾げて篤を見上げた
雅の仲間と理解して、やっと緊張を解き
布団から上半身を起こして手を差し出した
「俺、明…宜しく、アツシ?」
語尾が上がったのは敬称をつけなくていいか疑問だったのだろう
変わりに雅が答える
「呼び捨てでかまわん。お前の世話はコイツがする」
明は了解したようにコクンと頷いて微笑んだ
「明、どうしたんだ お前…」
まるで兄である自分を知らないような…雅に対する受け答えも
何もかもおかしい
困惑する篤の背後から雅が囁いた
「精神感応で服従させようとしたら深いところの記憶に触れてしまってな…
精神が崩壊した
いまの明は何も覚えていない」
「…な…なんで……」
精神が崩壊する程の記憶
「お前のせいだ篤」
雅の断言に篤は目を見開く
篤には覚えがあった
「実の弟を強姦するとは…」
雅の声が事実を囁く
篤は蒼白な顔で、明をただ見つめた
明は雅と篤を交互に見ていたが、布団を這い出し雅の傍に寄った
明の足首に付けられた足枷がジャラジャラと金属音を立てる
「…みや…び?」
雅は明の瞼に軽く口付けると
「解らないことは篤に聞け、私は外へ出てくる」
意味深に笑うと障子を閉めて出て行った
明は不安なのか落ち着きがない
「…明」
「?」
どんな調教をされたのか一目でわかる
明の胸をソッと指先で触れた
「ぅ…んっ…」
ピクンと小さく跳ね、甘い吐息をもらす
「明、抱きしめてもいいか?」
「?…わからない…」
明に意思決定はないのだろう
困惑したように視線を漂わせる
返事を求めるのを止め、篤は強引に抱きしめた
全ては自分が元凶だ
明を失う事を怖れ、自分から離れた臆病が
全ての始まりだと悔いた
今、自分に出来るのはこの腕を何があっても放さない事だけ
「明、お兄ちゃんって言ってごらん」
「?何で」
不思議そうに瞬きをする明が愛おしい
「俺、ずっと弟が欲しかったんだ」
これは神が起こした奇跡などではない
多くの罪を重ね、更に深淵へ堕ちていく悪魔からの餞
明は少し照れくさそうな仕草をしてから呟いた
「…お兄…ちゃん」
篤は壊れものを扱うように
優しくその頬に両手を添えた
「明…」
唇を重ねようと顔を近づけると
明は篤のシャツの裾をギュッと掴んだ
篤はその手を静かに解くと
代わりに自分の手で強く握りこんだ
「お前…初めてキスした時も恐がって俺のシャツを掴んでたな…」
「?…俺のこと、知ってるの?」
「知ってる」
弟の唇の感触を確かめるように舌先でなぞり
紅く潤んだ唇に深く口付けた
知っている
お前の事なら全て
舌を絡ませ、軽く吸い上げると
ジュルっと唾液の卑猥な音が響く
唇を離すと、明は名残惜しそうに熱に潤んだ瞳で
篤を見上げた
「アツシ…お兄ちゃん……」
躊躇いながら濡れた唇が動く
「お兄ちゃん…もっと…」
もっと欲しい
ゆっくり思い出せばいい
俺を憎んでいることも
俺を欲しくて堪らないことも
…明、帰ってきたよ
お前の元に