月光
「…慶…次…」
家康は突然闇夜に現れた目の前の男をただ唖然と見つめた
「元気にしてたかい?竹千代」
色々な感情がドッと胸に渦巻くのを感じながら
家康は平静を装って答えた
「竹千代じゃない。家康だ」
「はは!そうだったな」
「貸してた金でも返しにきたのか?」
「東の総大将様がちいせぇこと言うなよ!」
薄い笑みを浮かべているが慶次の目は冷たく家康を見据えている
家康はその視線に鼓動が高鳴った
徳川が豊臣の配下になってからは疎遠となり
慶次と会うのは数年ぶりになる
以前の健康そうな様子は消えうせ
蒼白な顔に不釣合いなほど赤い唇が
細くなった体の線に加え、なんとも言えない色気を醸し出していた
ただ変わらないのは一点の曇りもない瞳だった
家康はゴクリと唾を呑み込む
「豊臣秀吉を倒したことか?それとも四国討伐のことか」
「…まぁ、そりゃそのこともあるけど」
慶次は懐から煙管を取り出し火をつけた
「東西の戦、なんとか避けられねぇもんかと思ってさ」
「……」
慶次は薄く開いた口から紫煙を吐き出し、家康を真っ直ぐ見返した
「しかし…立派な、男になったな家康。ついこの間までこのくらいの背だったのにな」
そう言いながらニコリと笑って、自分の腰の辺りを指し示した
「もうわしは童じゃない」
「…そうだな」
三河の国が弱小だった頃
織田や豊臣などの強国と対等に渡り合っていた奥州の竜
甲斐の虎若子、西海の鬼…
諸国と交友を持つ慶次は家康にとって遠い存在だった
たまに
酒を飲み、語り合う友ではあったが
慶次の目には強い漢達しか映っていように思えた
いつも
いつも、
自分を一人の漢として
慶次に認められることを望んでいた
天下泰平を夢見て、
敗北の屈辱に堪え、強敵を打ち破り
今、まさに天下を治めるところまできた
あと一歩
「慶次、この戦が終われば天下泰平が訪れる」
「だがこの戦はデカい。たくさん人が死ぬ」
「…それは」
「それは仕方ない…か?大義を全うするには犠牲も止むを得なし…ってな」
慶次は口の端を歪め、悲しそうな色を目に湛えた
「…秀吉も…そう、言ってた」
「…ッ」
フイっと顔を反らせ、慶次は煙管を深く吸い込む
「…惨めなもんだ」
「慶次」
「逝くべき時を逃して生き永らえてしまった生き物は…惨めなもんだ。
そう思わねぇか?竹千代」
慶次の視線はただ遠くへ投げられていた
「某を、恨んでいるのだろう?」
「……」
「秀吉を殺めたことを」
「…いいや。いつか誰かに倒されてたさ。それがお前でむしろ良かった」
慶次は単調に続けた
「アイツが死んで気づいたことがある」
煙管の灰をボトリと地面に落とし、変わりに懐から小刀を取り出すと
束ねた髪の根元を自らバサリと切り落とした
「慶次!」
長い髪が夜風に散る中、薄ら笑いをする慶次を家康は凝視した
「なぁ…家康、折れちまったよ」
「…慶…次…」
「心の臓より大事な…魂が。俺の…大切な」
赤い唇がニヤリと口角を上げ歪む
「アイツが死んで、俺の大事なモンも砕け散っちまった」
慶次は心底可笑しそうに大声で笑った
やがて笑い疲れたのか、肩を竦めてクルリと家康に背を向けた
短くなった髪と露になった白いうなじを見て
家康は自分の知る慶次ではなくなったことを理解した
「慶次、某を憎いと言え!もう、友でもなんでもないと!仇だと言え!」
慶次の狂気を知った家康はそれを自分にぶつけなければ
そのまま駄目になってしまうと思い、有らん限りの声で叫んだ
「慶次ッ!!」
家康の怒声に慶次は弱々しく首を振った
「駄目だ。お前を恨めねぇんだ。俺は秀吉を殺されて憎いはずなのに
お前も大切な友だと思ってるんだ」
「!!」
「憎いのはたった一人…自分自身だ」
「慶次…」
「あれもこれも大事で、結局何一つ守れねぇ。救えねぇ。
気づけば全て失って…俺の魂も折れちまった。
政宗や幸村や…家康、お前みたいに、何かを背負う覚悟もない。惨めなもんだ」
慶次の声が震え、家康はたまらずその背を抱きしめた
腕に抱き包んだ慶次の体が見た以上に細く、家康はジワリと目頭が熱くなった
「慶次、某はお前がいたから信念を失わずにこれた!
独眼竜や真田にとってもお前の存在がどれほど重いかッ!
お前にはわからんのか?!」
「…本当に、逞しくなったなお前」
慶次は静かな笑みを浮かべて、包み込む家康の腕に触れた
勢力争いが増していた時
まだ若い家康とよく話をした
三河武士の魂を熱く語る家康の瞳は希望に満ち溢れ美しかった
「…これからは、お前の時代なのかも知れないな」
「慶次」
慶次は、家康の腕を解くとゆっくり振り返って見つめた
「なんだ、家康。お前、俺より背が伸びたのか」
鼻先がつきそうな近さで、わずかに目線を上げ慶次は苦笑した
「慶次…某と、」
家康の言葉を察し、慶次が遮る
「俺は西につくぜ」
「!…な…何…ッ」
「今、謙信とこに世話になってんだ。食わせてもらってる恩を
仇で返すわけにいかねぇからな」
「…慶次ッ」
「それに…魂の抜けちまった自分の抜け殻の始末をしねぇと」
慶次は驚愕し立ち尽くす家康の手をとると自分の胸に手の平を押し当てた
「頼むぜ、家康」
「何がだ」
「止めてくれ。俺のコイツを…」
家康は手から伝わる鼓動に、慶次の言わんとすることを知り手を振り払った
「馬鹿を言うな!」
「魂がねぇのに体が生きてると化けモンになるだろ?」
「ならん!!お前はっ!戦が嫌いだと言っただろう…ッ!」
慶次は目を伏せた
「ああ…そうだな。できれば戦は避けたい。でもお前、退く気はないんだろ?」
「…っ」
「もし、これが天下を分ける戦になるなら…天が与えた最後の機かも知れねぇ
何もかも無くしちまったけど、最後は自分の意思でパっと散らせる」
「…」
「前田慶次の最期、しかと見届けてくれよ」
「慶次」
「言っとくが、本気でやるからな!甘くみってと命が散るぜ?」
悪戯っぽく笑った慶次に家康は見惚れた
家康の大好きな慶次の笑顔がそこにはあった
(…まだ)
家康は慶次の後頭部を掴み無理やり自分の肩口に押し付けた
(まだ、折れてない)
憧れ、恋焦がれた慶次の魂はまだその中にある
「良かった…」
「家康…?」
瞬間、慶次はグゥッ!と呻いて家康に凭れるように倒れた
家康は慶次の鳩尾を突いた拳を引くと、その体を抱き寄せた
気絶した慶次の顔が月光に照らされている
「お前の長い髪、好きだったのに勿体無い…」
短い髪を指先で弄びながら、家康は微笑んだ